ここのところ相方が写真を撮っているので、
たまに写真ギャラリーやトークについて行ってみるのですが、
なかなか面白い..と思うものに出会えません。
現代美術の中の写真という表現は、スゴく好きで
今までにもいくつも印象に残った展示はあったし、
私自身、昔はいつも1眼レフを持ち歩き、
暗室にこもって焼いていた時期もありました。


写真は、現代美術よりもやっている人の数が多いし、
雑誌などのメディア媒体や講座の数も多いので、
一見土壌としては恵まれている環境にあるのかな..
とずっと思っていたのですが、見れば見る程、
古くからある写真メーカーや雑誌などの体質から抜け出せず、
表現としての土壌がまだ確立されていないんだな..と感じます。
どうしてそんなにモノクロフィルムにこだわるんだろう、
印刷する時点でデジタルデータになるのに...。
公募展募集でどうして四・八つ切りサイズのみなんだろう。
今やモニターやwebやケータイがこれだけ普及してるのに、
展示の仕方が皆同じサイズの紙焼き額装ばかりなんだろう。。
見る度に、表現として閉じた感じが息苦しさを感じていました。


あるトークショーで写真雑誌の編集者が、アーティストに向かって
「こんな閉じた所で表現している意味があるのか...」。
とても興味深い真摯な質問に対し、
「だから写真雑誌のせいだと言われても答える事はない..。」
などと発言していて、終止表現者側の甘さの話ししか出ず、
アーティストの作品意図や制作スタンスなどの話しが全く聞けず、
写真はもう見たくない..とその場を逃げ出したい気分で
一杯でした。このトークにも色々流れはあったのですが、
芸術表現として中央を支えている人が、この体制では..と
思えるところが多々あり、閉塞感が外からの観客を
寄せ付けない感じがしました。アーティストである事、
表現をする事が、そんなに特別な事なんだろうか。
編集者が掲載した物に責任を持てないと
言ってしまうのは、いい事なんだろうか。
商業的である事がそんなに悪い事なんだろうか...。


と、色々な事を思っている時、同じように感じていた相方が、
尾仲浩二サンの話しを聞いていると、平凡に見える
構図の写真でも、写真の文脈で見ていくととても斬新だったり、
今まで見た事がなかったような物だったりする場合が多い...
と話していた。私自身、現代美術という土壌から写真を
比較しながら見過ぎていたのかもしれないなと思った。
リアルな表現としての写真の面白さが分かるようになれば、
自分の表現に対する目も、少し広がる気がするこのところです。




アップフィールドギャラリーで見た Invisible moments展。
福居伸宏サンの作品が面白かった。以前見た大きな作品の、
暗闇の建物から漏れる光が印象的だったけれど、
今回は4つ並んだ液晶モニターに、トリミングされた
建物の写真が3秒ごとに変わっていき、前の映像の残像が
かすかに残ったまま、次の映像へと変化していく。
相方と話すのを脇で聞いていたら、トリミングはあえて
意識せずにしていった..という言葉が面白いなと思った。



新宿眼科画廊での「写真の灯台 自主ギャラリーの現在」。
自主ギャラリーを運営する人達が集まってのトーク
写真ギャラリーは多々あるけれど、何かと制約が多いので
自分たちでギャラリーをやってしまおう..という人が
沢山いるという点がスゴイ面白いな..と思った。
しかもキュレターや編集者ではなく、作家本人が
表現の場所と生活の手段としてギャラリーを
始めてる事が、話しを聞いていて興味深かった。



野村恵子サン主催の根岸のそら塾。
古い長屋を改築した週末カフェ&ギャラリ−。
写真や絵画などの作品が、普段ギャラリーで見るのとは
違って見え、生活の中に根ざした作品に見えるので
面白いと思った。手作りの陶器やランプ、洋服や小物なども
ディスプレイしてあって、とても落ち着ける空間でした。
奈良の3rd Place cafeの方の黒豆マフィンと
ワイルド・ミントティ−を頂きながら、
機会があれば教室などにも参加してみたいな..と思いました。