国立新美術館での「野村仁 変化する相―時・場・身体」展
のアーティスト・トークの覚え書き。


「自然は時間と共に真の姿を現わすか」
・学校で彫刻を勉強していた
・'68-69年 初の作品/Tardiology(ダンボール彫刻)。雨や風にあたるとつぶれていく彫刻。つぶれ方も自分がある程度許せるつぶれ方。後ろからバケツで支えるなどしていた。
ドライアイスの作品/'69年の写真展示。当時作品の写真を展示することはなかった。初めての写真展示。
・酸素作品/「空気が青いのは何故でしょう..」液体酸素。青は着色していない。
ストロマトライト/地球上に酸素はなかった。石が酸素を生み出した。バクテリア光合成で酸素が放出された。
・Photo book/'72-82年。16ミリのカメラで1ヶ月100フィート撮った。毎日会社に行く電車で撮り続けた。4,300枚。新聞記事で見た、甲子園球児がベースに飛び込む写真。セーフになろうと頑張っている顔が印象に残った。意識はしなくても、その顔になる。それを撮ろうとした。当時のサラリーでは全てプリント出来なくて、後々美術館にプリントしてもらった。
ヒアリング/昔の公衆電話は3分で切れた。朝から晩まで電話をかけ、周りの状況を話し録音した。人間は聞く事によって、あるものを色々イメージ出来る。音の初めての作品。
・3kgのカメラを毎日持ち続け、腰骨が歪み持てなくなった。朝方の月を見た時、楽譜が出来ると思った。(楽器があまり上手じゃないけれど..)ギャラリーに来たカップルが、月の写真を見て歌っていた。それから楽譜が出来た。月齢が音の長短になった。
・1月の5年分の月の満ち欠け表。年ごとに楽譜のパートを替えて演奏する。楽器を知らないから注文出来る。月を写していたら「野村暗いな..」と友達に言われ、太陽を写す事になった。魚眼レンズで撮るようになった。'87年。
・アナレンマ/10日〜2週間おきに撮る。ずっと撮っていて'87年の並びがあやしいと思いはじめた。北緯35度の太陽。撮っていたら繋がって、行ったやつが帰って来た。∞ 。めぐる形。
プラネタリウムで赤道の動きをやってもらった。シンメトリーになった。
・ガラスの作品/吹く時と上下逆。膨張しながらスピンをさせ、形が出来る。自由にコントロールが出来ない宇宙のよう。
ジュラ紀の巨木/杉の木の化石。1億5,000万年前。紙を1億5,000万枚集めて、その上に展示しようと思ったら、とんでもない数だった。その木が今も生きていたら大阪の豊中から、名古屋ぐらいまで行った距離だった。
・集団の鶴の動画を楽譜にした。
・月と大気の写真/宇宙飛行士の人に撮ってもらった。何でもっとちゃんと撮ってくれへんの?とはじめ思った。ISSからの写真。大気が働いて想像出来ないようなものが撮れた。
・私自身わがままに育っている。小学校低学年の時、よく星を見ていた。
・大理石にカラーリング/文学の解読に興味があった。2004年、文学にかわる素材が色だった。色彩の他のものに代えられない強さ。色のスペクタル。「アートは未来を写す。」などの言葉になっている。大阪のギャラリーの人は、教えてないのに全部読めた。


http://www.nact.jp/exhibition_special/2009/03/nomura.html


久しぶりに見た野村サンの作品。
野村サンの作品と言えば、月の満ち欠けの
音の作品の他、昔みとげで見た、ソーラーカーで
アメリカ大陸横断の作品が私の中では印象強い。
楽譜を作り始めたのは、たまたまギャラリーに来たカップルが
月の写真を見ていて、ハミングしていたのがキッカケ
と聞いて、一人のアーティストの印象づける作品が
そんなところから生まれるって面白いな..と思った。
「甲子園球児がベースに飛び込む写真を見て、
セーフになろうと頑張っている顔が印象に残った。
意識はしなくても、その顔になる。それを撮ろうとした。。」
という膨大な数の写真を集めた、辞書のような重厚な作りの
多数のPhoto book。日常そのものが写された写真。
重いカメラが持てなくなり、月を撮るようになり音の作品へ。
青い液体酸素や、杉の木の化石や琥珀発光ダイオード
当てた植物、宇宙から写された写真など、
身近にある素材の作品が徐々に、音から、月、太陽、
宇宙、古代にまで広がっていくのが面白かった。
個人的には初期の電話やアナログ盤の音の作品も良かった。